date:2007.4/25

先週たまたま見て、「面白そうかな」と思っていた『バンビーノ』を見逃す。もう、ドラマは面倒くさくって見られないかもしれない。風呂に入りながら『ニッポンの小説——百年の孤独』を読む。上がってからも読む。そして、とうとう、読み終わってしまった。ぼくは、本をたくさん読んで育ってきたわけじゃないけど、たとえば誰かに「この前の小説、どうだった?」と訊いて「ちょー面白くって、一気に読んじゃった!」と言われてしまうと、それだけで、「ああ、この小説は読まなくていいかな」なんて思ってしまう。なぜか。そういった小説は、面白いかもしれないけれど、たんなる面白い小説にしかすぎず、結局は、(ぼくにとって)重要な作品ではないような気がするからだ。これは、ぼくの場合だけなのかもしれないけれど、「スゴイ!」と思わされながら読む作品には、とにかくダラダラと付き合ってしまう。というか、そんなふうに時間を共にしてもいいと思わされる作品こそ、いい作品なんだろう、と思う。読書というのは、映画と違って、じぶんで読むスピードが変えられる。早く読もうと思えば、また、内容だけに目を向けようと思えば、流し読みなり飛ばし読みなりしてサッサと読んでしまえるのだろうけれど、そういうふうなカタチで読み終えるが勿体なくって、ついダラダラと遅延行為を繰り返させられるような作品を読んでいるときこそ、貴重な、そして贅沢な読書体験をしているという実感が得られる。それで、高橋源一郎さんの『ニッポンの小説——百年の孤独』は、まさにそんな作品なのだった。それにしても、読み終えてしまったあとに、ただの「哀しい」とは違う、複雑な気持ちに襲われる。現実というのは、本当に残酷なものだと思う。ひょっとしたら、これは読み違えているのかもしれないけれど、タカハシさんは、すでにじぶんが小説にできることの限界を知ってしまっているような気がする。だから、本当はじぶんで産み出したいはずの、次世代の小説、来るべき小説を、もはやじぶんでは創れないことをわかっているような気がしてならない。だけど、タカハシさんはそれでも、日夜、小説のまわりをグルグルと回り続ける。そしていろんな作品を比較したりして、あるいはじぶんで書いてみたりして、次の小説のヒントを探ろうとし、それを見せてくれそうな人が現れると(その大変さ、過酷さをわかりつつ)期待したり(嫉妬したり)する。読んでいると、タカハシさんは、自ら一線を退かざるを得ないことを感じつつ、だけど小説に貢献したい、という想いだけは持ち続けているような気がする。もちろんそれは<あなたと話した>いためにだ。最後の章の、本当に最後のあたり。タカハシさんが、本音を書いていて、ぼくは、胸が詰まるような想いでそれを読んだ。講義の時間が終わりになり、講義室をあとにするひとりの小説家の、なんだか哀しげな後ろ姿が見えたような気がした(もちろん、これはぼくの想像でしかないけれど)。そう、ぼくはそのときこの『ニッポンの小説——百年の孤独』を『ニッポンの小説——五十五年の孤独』と言い換えてもいいような気がしていたのだ。だから、タカハシさんの挑戦や実践や思考が、未来の人たちに、ちゃんと気づかれればいいな、と思った。そして、本文中にNとして、何度も著作を引用されている中原昌也さんが、勝手に周囲から背負わされたものが、あまりにも大きすぎると思ったのだった。つまりは、絶対に読んだほうがいい一冊だったのだ。